ふるさとの民具

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 令和3年11月13日から14日にかけて、清水東公民館で開催されました「ふるさとの民具展」の内容を、令和4年3月、清水東地区内の全世帯に配布しました[ふるさとの民具展ハンドブック]をもとにご紹介いたします。
 「ふるさとの民具展」では、福井市立郷土歴史博物館の協力により、清水地区の昔の人たちの生活や農業などに
使用した道具を展示されました。展示の民具は、昭和50年頃に当時の清水町青年団OB(清水町郷土研究会)が民家から収集したものです。
■[ふるさとの民具展ハンドブック]はこちらから。
■「ふるさとの民具展」のようすはこちらから(YouTube)

展示された古民具

■イズミ

 ワラでつくった揺り籠のことで、「イズミ」とも言います。丸く、大きく安定したワラ籠に布団を敷いて乳児を入れるもので、人手の少ない農村では欠くことの出来ない育児用具でした。室内だけでなく、田畑の農作業時にも用いられ、泣き出したりすると文字通り、籠を揺ってあやしたと言われています。それから考えると、全く安全で火事や手仕事の邪魔にならない便利な用具だったようです。しかし現代の子どもにしてみれば、少々束縛され過ぎの感じで、とってもじっとしていられないでしょうね。 
 ワラのにおいが漂ってきそうなイズミは、何とも人間味があって自然とのふれ合いの中での暮らしがなつかしく思い出されます。
・記事の出典引用:旧清水町広報しみず 1986(昭和61年) 3月号 No.271

■バンドコ

 「行火(あんか)」の事で、置ごたつの一種ですが、やぐらの代わりに瓦製や石製の覆箱等を使いました。
 行火には、写真の様に色々な形があり、こたつに比べて小型である事と火持ちがよい事により、湯たんぽの様に寝る時などによく用いられました。写真右下の行火は、寝ながら万が一けとばしても、中の火種が入っている容器は常に水平になるように工夫されています。なんとも先人の知恵には関心させられますね。
 行火は、江戸時代に作られたものですが、原型は平安時代からあったとされています。行火と言う言葉は中国語ですが、「火を使用する」という意味です。
 行火と並んだ暖房設備としてよく用いられてきたのが「こたつ」です。こたつには、掘りごたつと置ごたつがありますが、それぞれ発生源を異にします。掘りごたつは「いろり」から発達して来たもので室町時代の中頃に出来、置ごたつは「火鉢」を源とし、江戸時代の中頃になって生まれた様です。こたつが本当に普及するのはやはり木綿ふとんが一般に使われる様になる江戸中期以後であり、以来今日まで私達の暮らしには欠く事の出来ない必需品ですね。やはり暖ったかいですもの。
・記事の出典引用:旧清水町広報しみず 1986(昭和61年) 4月号 No.272

■おくそ鉢

 「おくそ」とは--麻を取りほぐして、中にある「お」(麻)を取り出す時、「お」の回りに黒っぽい不純物が出ます。それはやや粘土質で糞(くそ)に似ているところから「麻の糞」(おくそ)と言われ、それで作る鉢ということで「おくそばち」、漢字で書くと「麻糞鉢」となります。
 用途は、こわれにくいところから農作業、特に豆類の乾燥に使われました。また、なぜこのような物が作られたかというと昔の農家では、物を入れる容器がなく、竹かご、木を彫って器を作ったりしていましたが、てっとり早く、すぐ使えるおくそばちを作り利用していました。今でいう廃物利用ではないかと思われます。すなわち、昔の人々は、いらない物であってもすてる事なく利用するという物を尊ぶ気質がうかがえます。
 用途年代ははっきりつかんでいないが、昭和40年代まで使われ、現在でも山間部の農村では使われているのではないかと思われます。なお明確な用途年代、使用用途は、広すぎて、はっきりつかんでいません。
・記事の出典引用:旧清水町広報しみず 1986(昭和61年) 5月号 No.273

■除草機

 水田の草をとる機械として、農村で使用されていました。
 昭和初期より20年代にかけて清水町内では主として天津(南地区)でごく一部の農家で使われました。
 苗の植え付け後30日~40日の間の草丈10センチ~20センチ位までの間に株と株の間を人が押してあるき、雑草をかきとり中耕も兼ねて使用されました。一日かかっても1.5反位しか使えず、重量があり、また当時は農機具も配給制度であったため一般農家には普及しませんでした。
・記事の出典引用:旧清水町広報しみず 1986(昭和61年) 6月号 No.274

■中耕機

 田んぼの株と株の間を押して歩き、稲の根張り促進、ガス抜きをする為に使用されました。
 昭和10年代より30年代まで長く使用され、当時は一連式のものと、二連式のものがありました。
 現在では、動力付きのものが使用されています。
・記事の出典引用:旧清水町広報しみず 1986(昭和61年) 6月号 No.274

■セイタ(セタ)

 昔は、割木など重いものを背負うためにセイコ、セタ、セイタ(背板)が使われた。木を背中に合わせて組んだもの、写真のように藁やきれ、麻お、しななどをまぜて丈夫に三つ編みにしたセナカアテ(背中当て)をつけたものがある。地方によって様々な形があり、Lの字のようなツメ、ウデギがついているものなど土地柄でも大きさが変わっている。
 荷造りの仕方で荷物の重心のくる位置が調整できまたセイタで休むために、ネジンバイ(寝人杖)を使った。これは腰の高さ位の杉桐の股になった杖でセイタの一番下の横木にあてて休んだ。
記事の出典引用:旧清水町広報しみず 1986(昭和61年) 7月号 No.275

■テゴ

 野良仕事や山仕事など使用されたテゴ(手籠)は小物入れとしてちょうほうされた。コビリを入れたり、芋などの野菜や柿などの果実をいれたり、その用途は多用であった。藁や干し草などで袋状に
つくり縄をかけたもので、用途により肩や、頭、腰、手など、縄の種類が異なる。
・記事の出典引用:旧清水町広報しみず 1986(昭和61年) 7月号 No.275

■千歯(センバ)

 千歯こきという方法が行われたのは、江戸~明治~大正にまたがっています。清水町では「まんが」と呼ばれており、使い方は木部を固定して歯の付いている部分に乾燥させた稲束をはさみ入れてこき(わらともみに分ける)ます。若狭地方は千歯の産地として有名でした。
・記事の出典引用:旧清水町広報しみず 1986(昭和61年) 8月号 No.276

■足ふみ脱穀機

 明治43年に出現したこの機械は、農作業の一大変革をもたらし、百年来の千歯こきに比べ、使い方は足ふみする事でドラムを回転させ、その上に稲束を乗せるという簡単なもので、3~4分の1に労働を軽減する事になりました。大正の中頃、山内の笹木一冶氏は、改良型を発明して、全国に普及させ、おおいに貢献をされました。また電力が入ってからはモーターで回転させるものもありました。しかし、ヤタ(穂にもみが残ったもの)だけは昔のままヤタカチ棒で叩いてはずしました。
・記事の出典引用:旧清水町広報しみず 1986(昭和61年) 8月号 No.276

■馬草切り(押し切り)

 いつごろの時代から使われたのかわかりませんが、この写真の「馬草切り」は明治の後期~大正の初めごろに作られたものと思われます。
 使い方は、わらを上刃と下刃にはさんでわらの幅をきめて切っていきます。切ったわらは、主に牛、馬のエサにつかいます。
 現在、コンバインなどに使用されているシリンダーカッターの原型とも言えます。
・記事の出典引用:旧清水町広報しみず 1986(昭和61年) 9月号 No.277

■唐箕(とうみ)

 もみすりをしたあと、玄米といっしょになって混ざっているもみがらやわらくずを選別するのに用いる農具。
 大きさは幅2メートル、高さ1メートルあまり、奥行50センチ位の木の板で囲んだ四角の胴の上部の供給口から入れられた玄米に混ざっているもみがらや、わらくずを風で吹き飛ばす。
 中国で発明され、完成されたものが江戸時代の中期に日本へ伝えられた。それまでは、簑に少量ずつとってほうり上げるようにゆすりながら自然風にあてて選別をしていた。自然風のないときは、別の一人が打ち合わせるようにして風をおこすというくふうも見られた。
 唐箕は一定の風速により、しかも半連続的な供給ができるよう選別制度、能率ともにそれまでの箕を用いる方法よりまさる。
※ まだ現在でも使用されています。
・記事の出典引用:旧清水町広報しみず 1986(昭和61年) 10月号 No.278

■わたくり、糸車、糸まき

 天保時代に、高島善左エ門という人が美濃(現岐阜県)の国へ行き、この木綿織物の技術を習い村人に広めたという。
 綿を作り、その糸染めのための藍を作った。布の染もよく「石田縞(いしだじま)」と呼ばれ、ふとんや野良着として世に出た。
 綿繰り機は、畑で栽培した綿を天気の良い日に実の先についた綿をつかんでかごに入れ晴天で一日干し、これを綿繰り機にかけ繊維と種子にわける。とられた繊維をくり綿という。
 次に十分に打ち上げた綿を細かい竹筒に巻き付けて綿筒にし、これを糸まき(糸車)にかけ、糸にし、糸まきでかせにまく。
参考資料:福井県生活改善実行グループ連絡研究会書「むらのくらし」より写真の用具は『石田縞』の用具ではないか。
・記事の出典引用:旧清水町広報しみず 1986(昭和61年) 11月号 No.279

■俵あみ

 本体のこも梯子(ばし)、縄を巻き付ける土(ど)の子からなっている。
 おもに俵は、米俵(わら)、炭俵(かや)に分かれている。
 俵は収納運搬具として用いられ、特に年貢徴米との関係があった。
 編み方は、一本の縄のはしに土の子を一個づつ巻きつけ、こほ梯子の上に載せわら、かやを左右から五~十本載せ、土の子を手前から向うへ、向うから手前へ順々に編んでいく。
 俵の長さは四尺(1メートル20センチ)ぐらいの長さにする。別に俵の口をふさぐ桟俵(さんだわら)は手で編む。
・記事の出典引用:旧清水町広報しみず 1986(昭和61年) 12月号 No.280

■蠟燭(ろうそく)立

 蠟燭立は燭立とも言われ、古代にはわが国では蠟燭はほとんど使われていなかった為そう古いものではない。
 形としては、動植物形、多足形、灯台形、多灯形などがある。一般用としては、灯台形、多足形が使われていた。
 ランプは明治時代の室内照明具を代表するもので、開国当初は、横浜や神戸などの居留地で、欧米人が本国から持参して使っていたものを、日本人もわけてもらうなどして使っていた。油を使ってい
たので、ガラスほやに油煙がつくので、毎日ランプの掃除をしなくてはいけないこと油は揮発性が強い為火事を起こしやすいなどの欠点もあった。
 種類としては、吊ランプ、置ランプがある。
・記事の出典引用:旧清水町広報しみず 1987(昭和62年) 2月号 No.282

■アイロン

 衣服のしわを伸ばしたり、乾燥したりするのに用いる道具。語源は鉄のかたまりを加熱して使ったことからきている。昔は熱した鏝(こて)や金属製の火桶に炭火を入れた火熨斗(ひのし)が使われたが、その後、炭火アイロン、ガスアイロンが登場した。電気アイロンは今世紀はじめより使われるようになったと言われ現在では、家庭のほとんどが電気アイロンである。
・記事の出典引用:旧清水町広報しみず 1987(昭和62年) 3月号 No.283

■湯湯姿(ゆたんぽ)

 ゆたんぽは容器の中に湯を入れて、寝どこの中に入れて足腰を暖めるもので、室町時代に中国から入ってきた。
 湯姿は中国語である。姿は妻のことで妻のように抱いて寝る湯入れ、という洒落た(しゃれた)命名である。一般に使われるようになったのは明治になってからであると思われる。
 陶製のゆたんぽが多くなり地方によって形もいろいろに作られていた。多くはかまぼこ形又は円筒形で、上に注口がついているものである。またブリキ製もつくられてこれは現在でも使われている。
・記事の出典引用:旧清水町広報しみず 1987(昭和62年) 3月号 No.283